大河ドラマ『青天を衝け』
主人公・渋沢栄一の名言▽
『青天を衝け』の名セリフ・名言集 <32話〜>
第32回 「栄一、銀行を作る」
栄一は、井上馨とともに大蔵省を辞職。
明治政府を辞め、実業への道を歩み始める。
最初の目的通り、“官”ではなく“民”に入り実業の一線に立とうと決心した。
渋沢栄一(吉沢亮)
おぬしを誘っておきながら、先に辞めるとは、まことに申し訳ない
僕はここで、日本のために尽くす。呼んでくれて感謝している。
杉浦譲(志尊 淳)
また共に励めてよかった
俺もだ。あの郵便が届いた日の喜びは、忘れねえ。
渋沢栄一(吉沢亮)
パリでの日々も。
五代友厚は、1869年(明治2年)の退官後、鉱山業・紡績業・製塩業などの発展に尽力していた。
また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立するほか、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所などを設立していた。
おいも西で同志を集め、鉱山の商いをするカンパニーを起こしもした。
五代友厚(ディーン・フジオカ)
おいは大阪、おはんは東京で商いをすっこつになる
先に官から民にくだった者として、ひとつアドバイスをせんといかん。
五代友厚(ディーン・フジオカ)
政府はやっかいなケモノの集まりじゃったが、商いのほうはまさに化け物、魑魅魍魎 が 跋扈 しておる
一方、三菱を率いる岩崎弥太郎は、大蔵卿に就任した大隈重信と結びつきを強めていた。
栄一の母、ゑいが体調を崩し、東京の栄一のもとで療養することになる。
銀行券を見せ、”きっとみんなが便利になる”と言う栄一に、母・ゑいが忠告する。
それは楽しみだいねぇ。
栄一の母・ゑい(和久井映見)
でもなぁ、栄一。近くにいる者を大事にすんのを忘れちゃあいげねぇよ」
家族が見守るなか、ゑいは母としての言葉を振り絞り、静かに息を引き取る。
栄一、寒くねぇかい…? ご飯は、食べたかい…?
栄一の母・ゑい(和久井映見)
[栄一:何言ってんんだ、俺は大丈夫だ]
そうか、そうかい。よかったいねぇ。
お千代、ありがとう、ありがとうね。
第33回 「論語と算盤」
私はこの銀行を守らねばならないんだ!
渋沢栄一(吉沢亮)
ここがつぶれれば日本に銀行をつくるなど絵空事だと思われる。
育てねばならねぇ産業も商業もますます遅れ、今、崖っぷちの日本の経済そのものが崩れちまうんだ
小野組が第一国立銀行から借りた金のうち、多くは私がやっている支店への貸し出し。
渋沢様はわたくしを信用して無担保で貸してくださった。
そのご恩に報いるためにも、出せるものはすべて差し出します。頭取、どうやっても小野は助かりません。
小野組番頭・古河市兵衛
どうせなら、一方的に見捨てようとする政府より、信用してくださった、渋沢様やしせいのお客様にお返ししましょう。
政府による小野組や三井組への厳しい担保の要求によって、小野組が破綻。
新銀行は連鎖倒産の危機に陥ったが、小野組番頭である古河市兵衛の誠実な対応に助けられ、被害を最小限に留めた。
しかし、三井がこの機に乗じて第一国立銀行を乗っ取ろうとする。
銀行を守るため、栄一は、三野村との一世一代の大勝負に出る。
銀行のあり方としてどちらの方が正しいか、大蔵省に判断を仰いだ。
それによって日本で初めての本格的な西洋式の銀行検査が行われ、結果、三井組による銀行経営の独占は退けられ、栄一が第一銀行の頭取となる。
栄一は新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開した。
第一国立銀行はあくまで合本銀行だ。
渋沢栄一(吉沢亮)
多くの人々の力を合わせ、よどみない大河の流れをつくるのが目的だ。
それを、”株はすべて三井が譲り受ける”だと?
配当金も人員も…混乱に乗じてそんな横暴を言い出すとは、
承服しかねる
問題は、大口の貸し付けば、三井組のみにしとることや。
一つんとこに偏るんは、合本銀行として実に不健全であっとであーる。
大蔵省は第一国立銀行に三井組への特権のはく奪ば命ず。
さらに、渋沢の総監役ば廃止……頭取に任ずる。わいが始めたんじゃ。
大隈重信(大倉孝二)
しっかり立て直せ
ミスター、シブサワ。
紙幣頭付属書記 アラン・シャンド
銀行はただ金を預かり、貸し、利益を上げればいいものではない。
この銀行はまだ子供だ。
大事に育てなさい。
国の主要な輸出品である蚕卵紙 を外国商人が買い控えし始めたことで値が崩れ、政府は頭を抱える。
通商条約の手前、政府が表立って動くことができなかったのである。
彼を攻めるには、我をかえりみよ
攻めるときはまず、己の弱みを省みるべし一蔵さんの目指す日本を作るには、もっと多くの味方が必要じゃ
五代友厚(ディーン・フジオカ)
おいを助けるとじゃなか。国を助けると思うて、味方になってくれんか?
大久保利通/一蔵(石丸幹二)
おかしれぇ やってやりましょう
渋沢栄一(吉沢亮)
栄一は、政府の金で買い上げた蚕卵紙を焼き払って売り控えるという奇策を講じて、事態を打開した。
買い控えを逆手にとり、売り控えるのか 尾高惇忠(田辺誠一)
10年越しの、俺たちの横浜焼き討ちだい! 渋沢喜作(高良健吾)天まで届きそうな炎だ 尾高惇忠(田辺誠一)
見てるか、真田、長七郎、平九郎… 渋沢喜作(高良健吾)
渋沢栄一(吉沢亮)
今までの俺の働きは、なんやかんやと公儀や政府に守られていた。
しかし、今や俺が頭取だい。
これからは俺自らが多くのものの命運を引き受け、でっけえ海を渡るんだと考えたら、急にゾッとしたんだい。
それでこの論語だい。
論語には己を治め、人に交わる常日頃の教えが解いてある。
俺はこの論語を胸に、商いの世を戦いてえ。
ただ、怖いのはね、渋沢様。
三野村利左衛門(イッセー尾形)
あまりにも金中心の世の中になってきたってことですよ。
金を賤む武士の世が終わり、
今や誰もが金を崇拝し始めちまっている。
金だ、金だ、金だ。
こりゃあ、あたしら、開けてはならぬ扉を開けちまったかもしれませんぜ。(三野村)
うーん、さぁて、どんな世になりますかね
三野村 利左衛門は、三井銀行開業の翌年(明治10年)、病で亡くなる。享年57歳。
西南戦争にて西郷隆盛死亡の報が流れる。享年51歳。
大久保利通は不平士族に襲われこの世を去る。享年49歳。
1877年(明治10年)、栄一37歳、新しい世に向けて、目まぐるしく時代は変わってゆく。
第34回 「栄一と伝説の商人」
伊藤博文は、幕末の開国に際し諸外国との間に結ばれていた、不平等条約の改正を申し出ていた。
しかし、英国公使のハリー・パークスより、”国会も商工会議所もない日本で、君たちはどうやって 世論を聞くのか、馬鹿げている”と言われ、伊藤博文たちは返す言葉もなかった。
そこで商法会議所をつくることを考え、渋沢栄一ら実業家に協力を依頼する。
欧米には“Chamber of commerce(チェンバー・オブ・コマース)”という商人の集まりがあり、そこでの意見が民の声とされるそうじゃ。
伊藤博文/山崎育三郎
日本政府も文明国への第一歩として、ぜひ民の声を、“世論”を集めたい。
そんで君らに、民の代表として、商人の会議所を作ってほしい
渋沢家には、栄一を慕い、学ぼうとする若者たちが住み込むようになる。
屋敷を襲おうと狙っているものもいるとの噂を聞いた若者に、お千代は暴漢が来たらどうするか問うと、臆病で情けない言葉が返ってきた。
では巡査の駆けつける間に、残されたものが暴漢に襲われたらどうするのです。
渋沢千代(橋本愛)
そうなれば、あとで巡査が100人こようが無駄なこと。
今は昔と違って、身分の上下がなくなり、様々な制度もできて、誠にありがたいことです。
しかし、その今を生きる若い者が、争い事をただ高見から人ごとのように見物し、文句だけを声高に叫んで、満足するような人間に育ったのだとしたら、なんと情けないことか。
しかもあろうことか、命をかけ今の世を作ってくださった先人を、時勢遅れと軽蔑するとは
栄一は、岩崎弥太郎から豪勢な宴席に招かれ、商業で国を豊かにしようと意気投合するが、根本的な考え方の違いを感じ激論、言い争った末に席を立つ
おまはんはやたら合本合本と言うけんど……
岩崎弥太郎/中村芝翫
わしが思うに、合本法やと商いは成立せんがではないか。強い人物が上に立ち、その意見で人々を動かしてこそ、正しい商いができる
いいえ。無論、合本です。
多くの民から金を集めて大きな流れを作り、得た利でまた多くの民に返し、多くを潤す。
日本でもこの制度を大いに広めねばなりません。その人物一人が商いのやり方や利益を独りじめするようなことが、あってはならねぇ
己のみ強くなることに、望みはありません。
渋沢栄一(吉沢亮)
皆で変わらなければ意味がないんだ。わたしとあなたは、考えが根本から違う。
帰らせていただく
東京養育院の様子を千代に話すと「連れて行ってほしい」と言われ、夫婦で養育院を訪れる。
痛かったら泣いてもいいんだ。
渋沢千代(橋本愛)
誰だって、大人だって、子どもだって血が出れば痛いんだから
これから毎月、ともにここの子たちの顔を見にこよう。まことの親がわりにはなれなくても、決まって顔を合わせ、親しむようになれば何かは変えられるはずだ
渋沢栄一(吉沢亮)
栄一たちは、来日するアメリカ前大統領のグラント将軍を、民間代表として接待することになった
一等国では男と女が表と奥で分かれたりはしてねぇ。公の場に夫人を同伴するのは当ったりめぇなんだい 渋沢栄一(吉沢亮)
おめえたちおなごも、国を代表して将軍一家をもてなしてもらいてえんだ 渋沢喜作(高良健吾)
およしちゃん、がんばんべぇ。おなごの私たちが大事な仕事をいただいたんだい 渋沢千代(橋本愛)
でも、握り飯や、煮ぼうとうを出して、はいどうぞってわけにはいかないだんべ 渋沢よし/成海璃子
第35回 「栄一、もてなす」
俺は民部公子とパリに行ったとき、文明の差を嫌というほど思い知った。
渋沢栄一(吉沢亮)
今度は今の日本がいかに西洋に追いついているのか、見せつけなくてはならない。
築地の大隈邸で政財界の婦人らが集まり、井上馨の妻・武子に西洋式のおもてなしを教わる。
武子は、井上馨の妻で、2年間ヨーロッパを回って帰国したばかり。
西洋では挨拶をするときに歯を見せつけます。(ニコッ)
フフ。ギョッとしてはいけませんよ。
これは相手を馬鹿にしているのではなく、「敵ではない」「あなたに好意を持っている」ということを示す親愛の証しなのです。
…そして、次は手を取り合う。シェイクハンズやハグといった挨拶は常なること。
井上馨の妻・武子〔当時29歳〕(愛希れいか)
決して避けたり、おびえた様子を見せてはなりません。
慣れましょう。野蛮国と思われぬためにも。いかにわたしたちがふさわしい振る舞いをするかにかかっております。 大隈重信の妻・大隈綾子(朝倉あき)
そうですね。おなごも変わらなくてはならねえ 渋沢千代(橋本愛)
(この後、恋バナで盛り上がる婦人たち)
来日したグラント一行をもてなすため、夫人同伴での夜会が開かれる。
大隈綾子はお垂髪に小袿で、井上武子と養女の未子はドレスで参加。
上質な絹だい。
どのように縫い合わせたらこのような形になるのやら。 渋沢喜作の妻・よし(成海璃子)
そんなに腰を締め付けて痛くはないのですか? 渋沢千代(橋本愛)
あ〜もう痛いのよ。男なんてズボン履いてヒゲさえ生やせば西洋風になるけど、女はもう本当に苦労だわ。あ、見てよこの靴。 井上馨の妻・武子(愛希れいか)
まあこのような小さな器に足を? 渋沢千代(橋本愛)
西洋の男は日本よりずっとkind(優しい)だけど、それでも女を飾りとしか見ていないことがよくわかるわ。 井上馨の養女・未子(駒井蓮)でも美しい。本で見た異国のお姫様のようです。 渋沢栄一の娘・歌子(小野莉奈)
グラント一行が渋沢邸に来ることになる。
お千代。どうしよう。
渋沢栄一(吉沢亮)
グラント将軍が、我が家に来たいとおっしゃっている。
西洋では大切な客を、個人の家庭に招いてもてなす風習があるんだ
あれほどのお方を家でお迎えできるとは、こんな光栄なことはございません。
渋沢千代(橋本愛)
おまえ様、あの飛鳥山の屋敷をなんとしてでも二日で仕上げ、精いっぱいの支度をして、御光臨を仰ぎましょう。
あぁ〜、ぐるぐるいたします!
栄一からフランスでの「ポトフ」の話を聞いたお千代(橋本愛)は、栄一の母の味の”煮ぼうとう”を用意。
日本は今、欧米に肩を並べようとしている。
グラント将軍
しかし、多くの欧米人、特に商人は日本が対等になることを望んでいない。
日本が独立を守り、成長するのは大変なことだ。
しかし、私は願っています。それが成功することを。
お千代、おめぇはすげぇ。
今までも何度も、お千代をめとって、俺は敵なしとは思っていたが、今回はまことにたまげた。
お千代は世界に冠たるおなごだ。極上だ。かけがえのねぇ奥様だで。どうしても、言いたくて言いたくて仕方ねぇ。
渋沢栄一(吉沢亮)
ほれ直した。ありがとう。お千代
第36回 「栄一と千代」
栄一は、三菱のひとり勝ちを合本で打ち破るため東京風帆船会社を設立。しかし開業もしないうちに暗礁に乗り上げた。
養育院も東京府から事業縮小を迫られていた。
名誉や金より大切なのは目的じゃ。
五代友厚(ディーン・フジオカ)
おいは皆が協力して豊かな日本を作ることこそ正義だと信じちょる。
おはんはおいに比べてずっと欲深か男じゃ。
…
うんにゃ。二人はどこか似ちょ。
岩崎君もおはんも己こそが日本を変えてやるという欲に満ちておる。
栄一の長女・うた(歌子)と穂積陳重の縁談が持ち上がり、二人は結婚。
渋沢家が幸せな空気に包まれる中、千代が突然の病に倒れてしまう。
俺は理想だけでは太刀打ちできぬことを岩崎さんに突きつけられた。
渋沢栄一(吉沢亮)
皆を救いたいと思っても現実にはできねえ。
切り捨てねばならねえこともある。
五代さんには俺もよく深いと言われちまった。
まあ認めるところもある。
今の俺は、己の目指す合本の社会を作るためならどんなことでもしてやりてえと思ってる。
若いころは、己が正しいと思う道を突き進んできたが、今の俺は正しいと思うことをしたいがために、正しいかどうかもわからねぇほうに向かう、きたねえ大人になっちまった。
若い二人が羨ましい
お前さまは、昔から欲深いお方でしたよ。
正しいと思えば、故郷も妻も子も投げ打ってどこへでも行ってしまう。
働いて得たお金を攘夷のために使ってしまったこともある。
思う道に近づけると思えば、敵だと思っていたお家にでも平気で仕官する。
…
でも私は、お前様のここが、誰よりも純粋で温かいことも知っております。覚えていますか?幼いころに見た夢のこと
…いろんなものを背負うようになってからも、心の根っこはあのころとちっとも変わってねぇ。
渋沢千代(橋本愛)
お父さまやお母さまも『よくやった』と褒めてくださいますよ
渋沢千代(尾高千代)
幕末の1841年、父・尾高勝五郎氏の三女として生まれる。
18歳の頃、渋沢栄一(19歳)と結婚。
1882年(明治15年)7月14日、コレラにより病没。享年42。
(当時のコレラの死亡率は70%と言われている。感染症であるため、我が子ですら息を引き取る母を看取ることができなかった)
第37回 「栄一、あがく」
政府の命により、海運会社・共同運輸会社が設立された。
千代を亡くして憔悴(しょうすい)している栄一を見かねた知人らの勧めで、豪商であった伊藤八兵衛の娘・伊藤兼子を後妻に迎える。
渋沢家の家政を任せたい。
渋沢栄一(吉沢亮)
特に嫡男の篤二はまだ小さく、母親が必要だ。
また、財界や政府に世話になっている方が数多くいるゆえ、その方々や家族ともうまく交際し、万事抜かりなくやってもらいたい
これは岩崎さんの独裁と、俺の合本との戦いなんだ!私は、戦いをやめる気はありません。刺し違えてでも勝負をつける
渋沢栄一(吉沢亮)
三菱と共同運輸が熾烈な競争を繰り広げていたが、両社消耗していく中、1885年(明治18年)2月7日、弥太郎は胃がんのため病死。50歳没。
三菱と共同運輸、どちらも会社が長くは持たないことを認め、2年半の戦いを終えて合併。
その年の秋、五代友厚も亡くなる。
おいが死んでもおいが作ったものは残る。
五代友厚(ディーン・フジオカ)
青天白日、いささかも天地に愧じることはなか。
じゃっどん、見てみたかった。
こいからもっと商いで日本が変わっていくところを。こん目で見てみてみたかった。
渋沢くん、日本を頼んだど
第38回 「栄一の嫡男」
1889年(明治22年)旧幕臣たちが企画した、徳川家康の江戸城入城三百年の節目を祝う、「東京開市三百年祭」が開かれた。
渋沢家では、嫡男・篤二が、跡継ぎのの重責から逃れるように、放蕩を重ねてしまう。
謹慎のため、栄一の妹・ていが、篤二を血洗島に連れて帰る。
10歳のとき、父と初めて草むしりをしたんです。
渋沢篤二(泉澤祐希)
父が、『よいことをすれば、きっと母さまの病はよくなるよ』と言われるので、精を出して草をむしった。
どうにかして、母さまの病が良くなるようにと一生懸命。
母さまの病は悲しかった。
でも、ふだんほとんど家にいない父が、ずっと家にいるのがうれしくてたまらなかった。
母さまも治ることはなかった。
……今でも夏は苦手です
謹慎の後、東京に帰った篤二は、1895年(明治28年)に公家華族の橋本伯爵家・敦子と結婚。
栄一は、汚名を被ったまま静岡でひっそりと暮らす慶喜のことが気がかりだった。
栄一は静岡の慶喜邸に立ち寄った際、慶喜の偉業を後世に残すため、伝記を作らせてほしいとお願いする。
何が偉業だ。
徳川慶喜(草彅 剛)
私は誰に忘れ去られようが、たとえただの趣味に生きる世捨て人と思われようが構わぬ
1894年(明治27年)乳がんの治療のため東京の宗家に移っていた美賀子夫人が死去。
1897年(明治30年)慶喜はおよそ30年ぶりに東京に戻り、巣鴨に移り住んだ。
第39回 「栄一と戦争」
1904年、日露戦争が勃発。
栄一は政府から、財界の代表として戦争への協力を求められ、演説をするが病に倒れてしまう。
病状が悪化し、このままでは命があぶないと、医師より宣告を受ける。
生きてくれ。生きてくれたら、なんでも話そう。
徳川慶喜(草彅 剛)
なんでも話す。そなたと、もっと話がしたいのだ。
だから、死なないでくれ
慶喜は栄一の見舞いに訪れた際、今まで拒んでいた伝記への協力を承諾することを涙ながらに伝える。するとその後、栄一の病は快復へと向かっていった。
今の日本は心のないはりぼてだ。
渋沢栄一(吉沢亮)
そうしてしまったのは私たちだ。
私が止めねば。篤二、私は……近く、実業界を引退する
第40回 「栄一、海を越えて」
栄一は、実業界を引退する意向を告げ、60以上もの会社を辞職。
栄一(当時69歳)は、1909年(明治42年)、渡米実業団を率いてアメリカに渡る。
その道中、1909年10月26日、伊藤博文が中国北東部のハルビン駅で、韓国の独立運動家に暗殺されたと知らされる。
わたしは先日、長年の友を亡くしました。
殺されたのです。
今日だけではない。
わたしは人生において実に多くの大事な友を亡くしました。
互いに心から憎しみ合っていたからではない
相手を知らなかったからだ
知っていても考え方の違いを理解しようとしなかった
相手をきちんと知ろうとする心があれば、無益な憎しみ合いや、悲劇は免れるんだ日本には「己の欲せざる所人に施すなかれ」と忠恕(ちゅうじょ)の教えが広く知れ渡っています。互いが嫌がることをするのではなく目を見て心開いて手を結びみんなが幸せになる世を作る。
わたしはこれを世界の信条にしたいのです。大統領閣下はわたしに”Peaceful war”(平和な戦争)とおっしゃった。しかしわたしはあえて申し上げる。「No war!」「No war!」だ。どうかこの心が、閣下、淑女、紳士諸君、世界のみんなに広がりますように。
渋沢栄一(吉沢亮)
1912年、明治天皇崩御。時代は明治から大正へ。
幼い頃から栄一と共に生きた渋沢喜作が、74歳で生涯を終える。
1913年〈大正2年〉11月22日、徳川慶喜は77歳の天寿を全うした。
わたしはあの頃からずっといつ死ぬべきだったのかと
自分に問うてきた
天璋院様に切腹を勧められた時か
江戸を離れる時か
戊辰のいくさが全て終わった時か
いつ死んでおれば徳川最後の将軍の名を汚さずに済んだのかと、ずっと考えてきた。
しかし……ようやく今、思うよ。
生きていて良かった。
話をすることができて良かった。
楽しかったな。尽未来際、共にいてくれて……感謝しておる。
徳川慶喜(草彅 剛)
嫡男の篤二が、家を出て妾宅を持ったことで問題に。
栄一は篤二を廃嫡とすることに決める。
孫の敬三がまだ17歳の時だった。
そして孫の敬三が19歳の時、栄一は正装して敬三の前に対座し、自分の跡を継いでほしいと懇願したという。
敬三は自分の将来が全て絶たれたように感じた。
敬三の夢は、動物学者になることだった。
どうか農科ではなく、法科に進んではもらえないだろうか。
渋沢栄一(吉沢亮)
ゆくゆくは実業界で働いてもらいたい。
わたしの跡を取り、銀行業務についてほしいのだ
第41回(最終回) 「青春はつづく」
1916年(大正5年)、栄一は喜寿を機に、実業界から完全に引退したが、その後も都市開発や教育事業、社会事業など、毎日平均15時間働く。
1917年(大正6年)、長年手がけてきた慶喜公の伝記本「徳川慶喜公伝」が完成。慶喜が亡くなって4年後の秋のこと。
1921年(大正10年)、栄一4回目の渡米。悪化する日米関係の成り行きを心配した栄一は、ワシントン会議の様子を実見し、日米平和に何らかの貢献をしようと考えた。
渋沢栄一(吉沢亮)
なぜこの会議で移民問題が大事か。
それは国と国の関係が、結局は人と人の関わりだからだ。外交問題だけではない。
人間の根っこの心の尊厳の問題なんだ
1922年(大正11年)、栄一の後を継ぐ決心をした孫の敬三は、岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚後、ロンドン支店勤務のため渡英。
1923年(大正12年)、関東大震災が発生。兜町渋沢事務所は、全焼。
栄一らは罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。大震災善後会を結成して義援金集めにも奔走し、栄一と交流のあったアメリカの実業家からも多くの義援金が寄せられた。
1931年(昭和6年)、中国で起こった水害のために、満91歳にして中華民国水災同情会会長を務め義援金募集に尽力した。自宅からラジオを通じて募金への協力を呼びかけ募金は驚くほど集まった。しかし、満州事変が勃発し、救援物資は受け取りを拒否されてしまう。
大丈夫だい。私が言いたいことはちっとも難しいことではありません。
渋沢栄一(吉沢亮)
手を取り合いましょう。
困っている人がいれば助け合いましょう。
人は人を思いやる心を。
誰かが苦しめば胸が痛み、誰かが救われれば温かくなる心を当たりまえに持っている。
助け合うんだ。
仲よくすんべぇ。
みんながうれしいのが一番なんだで。
昭和6年(1931年)11月11日、栄一、家族に見守られながら息をひきとる。享年92(満91歳没)。
逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったそう。
栄一の葬儀は青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送ったと伝えられている。
祖父には、この程度で満足とか、ここまでやれば十分だなどと力を惜しむことが、少しもなかったように思います。
渋沢敬三(笠松 将)
常にもっと国をよくしたいと、もっと人を守りたいと、そればかりを考えて生きていたように思います
長い間お世話になりました。
渋沢栄一(吉沢亮)
私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度という今度はもう立ち上がれそうにもありません。
これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。
死んだあとも、私はみなさまの事業や健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも他人行儀にはしてくださらないよう、お願い申します
『青天を衝け』完
『青天を衝け』<1話〜12話>はこちら▽
『青天を衝け』<13話〜24話>はこちら▽
『青天を衝け』<25話〜31話>はこちら▽
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