オードリー・ヘプバーン

名言 略歴と名言

プロフィール

Audrey Hepburn(オードリー・ヘプバーン)
1929年5月4日 −1993年1月20日 享年63。
ベルギーのブリュッセルに生まれる。イギリス人。アメリカ合衆国で活動した女優

今もなお世界中で愛され続ける「銀幕の妖精」

オーストリア系イギリス人の父とオランダ貴族の母の間に生まれたオードリー。
幼い頃から英語、オランダ語、フランス語に馴染んで育つが、幼くして両親が離婚。
母に引き取られた少女時代はちょうど第二次世界大戦の真っ最中。食事もままならず栄養失調を体験。
5歳ごろからバレエを初め、
10歳のときに祖父のいるオランダへ移住。そこで6年間バレエの特訓を受け、バレリーナになる。将来を嘱望されたが、10代になった彼女の身長は170センチに。
これは当時のバレリーナとしては高すぎたため、プリマになることを断念し、家計を助ける目的もあって、より出演料が高額な舞台女優に転身した。

1945年の第二次世界大戦終結後に、母エラとオードリーはアムステルダムへと移住。
オランダで有数のバレリーナとなっていた。
1948年に母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団 (en:Rambert Dance Company) で学んだ。

しかしヘプバーンの170cmという身長と、体格や筋肉を作る成長期に十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、プリマになることを断念し、演劇の世界で生きていくことを決心した。

映画出演のロケ地で、偶然訪れたフランスの女性作家コレットに見出され、自作の戯曲『ジジ』のブロードウェイ公演の主役に抜擢される。その後次々とチャンスをつかみ、スターへの道を歩み始めた。

チャンスは滅多にめぐってこない。
だから、いざめぐってきた時にはしっかりつかまなければならない

そして1953年、映画『ローマの休日』に初主演。

オードリーは王女の気品と少女のような愛らしさを魅力たっぷりに演じ、大ブレイク。
アカデミー賞主演女優賞に輝いた。

最高の勝利は、自分の欠点を受け入れられ、ありのままの自分で生きられるようになったこと

映画『麗しのサブリナ』
映画『おしゃれ泥棒』
映画『シャレード』
映画『ティファニーで朝食を』
舞台「オンディーヌ」
映画『戦争と平和』
映画『マイヤーリング』
映画『緑の館』
恋多き女性だった彼女は、共演相手とのロマンスも少なくなかったよう。

1989年のスティーヴン・スピルバーグ監督作の映画『オールウェイズ』を最後に、60歳で女優を引退。

ユニセフ親善大使に

歳を重ねると、自分に手が2つあることを知るはず。
1つは自分自身を助けるため、もう1つは他者を助けるために

1950年代からユニセフのラジオ番組でナレーターを務めるなど、チャリティ活動に熱心だった彼女は晩年の数年間、子どもたちのための活動に献身した。

1988年、58歳の時にユニセフ親善大使に任命される。
同年のエチオピア訪問を皮切りに、1993年に63歳でこの世を去るまでの5年間、トルコ、ベネズエラやホンジュラスなど中南米諸国、ベトナムなどを50回以上訪問。飢餓に苦しむ難民の窮状や劣悪な環境に暮らす子どもたちのための予防接種の普及、水道設備設置など、人道支援の重要性を世界に訴えた。

1992年アメリカで最高の栄誉である大統領自由勲章を授与される。

1992年9月、ソマリア訪問から帰国。

1993年1月20日、スイスのトロシュナの自宅で63年の生涯を閉じる。

いつも笑顔の子が一番美しい


ー魅力的な唇のためには、優しい言葉を紡ぐこと。愛らしい瞳のためには、人々の素晴らしさを見つけること。
そして、美しい身のこなしのためには、一人ではないという知識を持って歩きなさい
。

アメリカの詩人サム・レヴェンソンが孫娘に送った手紙の一節。オードリーもお気に入りで2人の息子に読み聞かせていたのだそう。

人は、物以上に、回復して、新しくなり、生き返り、再生し、報われることが必要なの。決して、誰も見捨ててはいけません。

People, even more than things, have to be restored, renewed, revived, reclaimed, and redeemed; never throw out anyone.

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