七夕の由来

ことばの雑学

7月7日は七夕です。
縁起のよい「陽数」とされる奇数が連なる7月7日の夕べに行われるため「七夕の節句」といいます。
一年間の重要な節句をあらわす五節句の一つです。

●五節句・五節供
人日(じんじつ):正月7日
上巳(じょうし):3月3日
端午(たんご) :5月5日
七夕(しちせき):7月7日
重陽(ちょうよう):9月9日

七夕伝説は日本だけではない?!

七夕伝説は日本だけではなく、アジアやヨーロッパなど、世界各地に数多く存在しています。
しかし、それぞれの国や地方によって、七夕伝説の内容や結末は違っていて、祝い方においても各国独自の文化となっています。

日本の七夕の由来・起源

日本の七夕伝説の発祥の地とされるのは中国。
中国での行事であった七夕が奈良時代に日本に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれたようです。(Wikipedia参考)

日本の七夕の由来には、いくつかの説がありますが、以下の3つが合わさって今の七夕の行事になったというのが最も有力なようです。

  1. 日本古来の行事「棚機(たなばた)」
    秋の豊作を祈願したり、人のけがれを祓ったりする行事で、7月7日の夜に行われていた日本の行事。
  2. 織姫と彦星の伝説
    一年でこの日だけは織姫と彦星が巡りあうことができる日とされています。

    ・織姫(女星)/こと座のベガ:裁縫を司る星
    ・彦星(男星)/わし座のアルタイル:農業を司る星
  3. 奈良時代に中国から伝来した行事「乞巧奠きこうでん(きこうでん)」

「乞巧奠(きこうでん・きっこうてん)」は、今でも冷泉家に伝わる、星に和歌を手向ける七夕の歌会行事となっています。
冷泉家は平安時代の歌人・藤原俊成や藤原定家の流れを汲む公家で、歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承しています。

「乞巧奠(きこうでん・きっこうてん)」は、今でも冷泉家に伝わる、星に和歌を手向ける七夕の歌会行事となっています。
冷泉家は平安時代の歌人・藤原俊成や藤原定家の流れを汲む公家で、歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承しています。

笹に願いを

笹に願い事を書いた短冊を飾りますが、これは日本だけの風習だそうです。

これは梶(かじ)の葉に歌を書いて技芸の上達を願う中国の行事「乞巧奠きこうでん」や、日本古来の風習などが合わさって今の形になったと言われています。

七夕は7月7日の行事ですが、元々は旧暦の7月7日に行われてきたもの。
新暦(現在の暦)になおすと8月中旬前後のお盆の時期にあたります。
七夕とは本来ご先祖様を供養する盆行事だったようです。

七夕がまだ日本で貴族文化だったころ、貴族たちは技芸の上達を祈り、紙に願い事を書いてお供物と一緒に七夕の日の朝に川へ流していました。

七夕に笹を用いるのは魔除けと抗菌の意味合いがあります。
天に向かって伸びる笹竹は天の神様の依りつくところ(依り代)とされています。
その笹竹に願いを込めた飾りものをつるし、願い事が天に届くようにとお願いします。

この短冊に関して、脳科学の観点からも願いごとを書くことは大切であるといわれています。
書くことによって願いごとへの意識が高まり、その願いを叶えるために必要な情報が脳内で整理されて行動ができるため、願いごとが叶いやすくなるようです。
七夕の短冊に願いごとを記すということは、脳科学的にも意味があるということです。

七夕伝説にちなんだ雨の呼び名

洗車雨

6日に降る雨は「洗車雨洗車雨(せんしゃう)」。
七夕の前日、牽牛(けんぎゅう)(彦星)が年に一度の逢瀬(おうせ)に使う牛車を洗う。その水が雨になって落ちてくると伝えられています。

催涙雨

7日の雨は「催涙雨(さいるいう)」。
一般的にいわれているのは、七夕しか会うことの出来ない織姫と彦星が、雨の氾濫で天の川を渡れなくなり、流す涙になぞらえているとされています。

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