南方 熊楠

略歴と名言

南方 熊楠 (みなかた くまぐす)

研究に人生を賭けた、「知の巨人」と評される野性味あふれる天才博物学者。
Natureネイチャー」誌に載った熊楠の論文は50を超える。
十数ヶ国もの言語を操り、自然保護の概念がない時代に、生態系が壊れる恐ろしさを「エコロギー」という言葉を使い訴え闘った、エコロジーの先駆者。

粘菌という、アメーバ界に分類される単細胞生物を観察し続けた熊楠は言う。

世界に、不要のものなし

1867年5月18日(慶応3年4月15日)〜 1941年(昭和16年)12月29日
和歌山の世界的な博物学者、生物学者(特に菌類学)
民俗学者。

読むというのは写すこと、読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ

この言葉は熊楠の口癖だったと言う。
熊楠は人文、自然科学にこだわらず、森羅万象、自分が興味をいだくあらゆるものを記録。底なしの好奇心と爆発的な行動エネルギーの持ち主だった。

単身海外に飛び立つ

熊楠は幼い頃から神童と呼ばれていた。
小学校の頃には、友人の家にあった和漢三才図会(図入りの漢文による百科事典)を読みふけっては、暗記した文章と絵を、家に帰って描き写した。やがて借り出し、5年で全105巻を完成させた。

東京大学予備門に入ると、学校の授業に興味を覚えず、郊外に出て動植物の採集に夢中になる。
世界を駆けまわり、大自然を観察し、天地のいのちの不思議を知りたい―そんな夢を抱いていた頃、イギリスの植物学者バークレーらが6,000種もの世界最初の標本集を刊行したという新聞記事を読む。熊楠はそれを超える7,000種の菌類を集め、日本国の名を天下にあげてみせるという誓いをたて、東大予備門を退学、反対する父を説得して19歳で単身渡米。

顕微鏡と出会った熊楠は地衣類の新種を発見。

日本人の無名の青年が新種を発見したという事実は学会で話題となり、熊楠の名は研究者の間で知れ渡った。熊楠24歳の偉業だった。

その後も生物学、民族学、人類学、天文学、言語では十数ヶ国語を操り、ありとあらゆる分野を研究した。

イギリスでのこと

国立ロンドン大学総長のディキンズが竹取物語の翻訳を熊楠に見せて指摘をしてもらったところ、遠慮なく指摘した熊楠に、ディキンズは唇を震わせて激怒。

「日本ごときの未開国からきた野蛮人は、目上の者に対して敬意も払えないのか」。

熊楠も負けてはいない。窓ガラスを震わすような大声で言った。

相手が高名な学者じゃからちゅうて,間違っちょるもんを正しいと心にもない世辞を並び立てるような未開人はイギリスにはいても日本にはおらん!誤りを正すほどの気兼ねもない卑屈な奴など生きておっても何の益もない!

喧嘩別れに終わるが、ディキンズは一人冷静になったとき、熊楠の指摘した点はきわめて正しいとの思いに至った。
そして大英帝国の権威に臆することなく祖国の名誉のために堂々と抗議したその勇気に感心し、無礼を詫び、終生変わることのない親交を結んだ。


熊楠が大英博物館の東洋部図書部長、ロバート・ダグラス卿を助けて、日本書籍や漢籍の目録作りに没頭した頃、ダグラス卿は熊楠の実力を認めて正規の館員に推薦した。

しかし権威に地位に無欲の熊楠は、

(雇われ)人となれば自在ならず、自在なれば(雇われ)人とならず」、

自分は勝手千万な男でありますゆえ

このように言って辞退し、無官薄給の「嘱託」の処遇をもとめた。

1892年 9月、熊楠25歳の頃、ロンドンで父の訃報を告げる手紙を受け取る。
実家からの仕送りが途絶え、貧しい暮らしを余儀なくされる。

1893年、大英博物館で東洋関係の資料整理を助ける。科学雑誌「Natureネイチャー」に最初の論文『東洋の星座』が掲載され、一躍有名に。

ロンドンで、亡命中の”中国革命の父”といわれる孫文と知り合う。それぞれの祖国を思う気持ちには通じるものがあり、2人はたちまち意気投合し、毎日のように行き来し、深い親交を結んだ。

ロンドンの大英博物館に有識者として迎えられる輝かしい経歴の一方で、「大酒飲みの癇癪持ち」「気に入らない相手に向かってゲロを吐く」といった奇人ぶりだったようだ。

浮世絵を売るアルバイトなどをして生計を立てるが、苦しい生活は変わらなかった。

当時、欧州では東洋人への蔑視がひどく、色々な嫌がらせもあった。
人類学に造詣が深い彼としては、馬鹿げた人種差別を人一倍許せず暴行事件を起こす。熊楠の実力を知り、庇いかば、世話をしてくれるロンドンの学者たちもいたが、結局日本に帰国することになる。

紀伊の森を守る

肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような、阿呆共の仲間になることはない

1900年(明治33)に帰国した彼には日本での学歴や学位など何もなかった。
大学や研究所への就職を世話しようとしてくれる人もいたが権威を嫌った熊楠は紹介を断り、熊野の野山を駆け巡り、大酒を飲み、論文を書き続けた。

明治時代に欧米留学し、その後の日本において地位や名誉を得た人物は多いが、熊楠のようにそれには目もくれず、専門の生物学だけでなく、民俗学や宗教学など多様な視点から欧米の近代科学の限界を明示した人物はほとんどいなかった。
(出典:るいネット http://oensite.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334243

明治の日本人の多くは、「最新科学で武装した欧米列強をまねて、オレたちも強くなろう」と考えていた。しかし熊楠は、軍事力を背景にした帝国主義には何の価値も見出さなかった。「日本人が目指すべきものは、もっと別のところにある」と直感していた。
(出典:明治大学 野生の科学研究所 http://sauvage.jp/activities/3512

和歌山の地で熊楠はそこでまたさまざまな騒動を起こすが、その飾らない人柄で町の人々から大いに愛された。

真言宗密教僧・土宜法龍と文通したり、民俗学者・柳田國男の訪問を受けるなど、その計り知れない知識に吸い寄せられるように、多くの偉人も熊楠の周りに集まった。

1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって紀伊山地の森が伐採される事態となる。神社合祀による複雑な負の連鎖を、自然破壊だけに留まらず人間を含めた生態系の危機としてとらえていた熊楠は生物の宝庫である森を守るために、様々な行動に出る。地元の新聞記事に次々と反対意見を投稿。さらに推進派の集会に乗り込み、大暴れ。この時、熊楠は初めてエコロジーという言葉を使い、自然界は絶妙なバランスで成り立っており、どんな生き物でも一つ欠ければ、取り返しのつかないことになるかも知れないと説いた。
やがて熊楠の思いは多くの人々の心を動かし、1918年、ついに神社合祀令は廃止。
紀伊の森や神島の森は守られた。

1929年(昭和3年)生物学研究者でもあった昭和天皇が熊楠を訪ねられた。熊楠は粘菌や海中生物に関する御進講を終えた後、粘菌の標本110種類をキャラメルの空き箱に入れて陛下に献上。
献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったため、このキャラメルの空き箱は熊楠を表すエピソードとして語り草になっている。

”熊楠がさし出したのは、森永ミルクキャラメル60個入りの化粧外箱の空箱だったのだ。まわりの者たちは驚いたが、昭和天皇はニコニコしておられたという。 ボール紙でできていたミルクキャラメルの化粧箱は、とても丈夫であった。熊楠は、桐の箱をいくつもつくらせたものの気に入らず、「これが一番いいんだ」と言って、この化粧箱に決めたのだそう”

モリナガデジタルミュージアム|森永エピソードより

当時、その場に立会った、野口侍従じじゅうは 、
「かねて、奇人・変人と聞いていたので、御相手ぶりもいかがと案ずる向もあったが、それは全く杞憂きゆうで、礼儀正しく、態度も慇懃いんぎんであり、さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり、また日本人らしく皇室に対する敬虔けいけんの念ももっておられた」 と追懐ついかいした。

南方熊楠記念館より

日本の自然保護運動の先駆者となった熊楠は、1941年(昭和16年)、家族に見守られて静かにその生涯を閉じる。享年74歳。

亡くなる前日の最後の言葉。

こうして目を閉じていると、天井一面に綺麗な紫の花が咲いていて、からだも軽くなり、実にいい気持ちなのに、医師が来て腕がチクリとすると、たちまち折角咲いた花がみんな消え失せてしまう。
どうか天井の花を、いつまでも消さないように、医師を呼ばないでおくれ

熊野の環境保全はその後も住民らに受け継がれ、長い間の運動が功を奏し、2004年(平成16)には熊野一帯を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産リストに登録された。

エコロジー思想や南方マンダラ他、彼の残した興味深い偉業はまだまだ数えきれないほどある。

熊野古道

くまぐすあんぱん

和歌山のララ・ロカレさんで売っているくまぐすあんぱん。
このパンの売り上げの一部は南方熊楠まちづくり基金に寄付されているそうです。
画像はバニラブログさんよりお借りしています。

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